サクラメント(9):洗礼の持つ死を伴う意味

12 days ago | nac news | in the group Japan (English)

浸礼*が必ずしも浸礼ではありませんし、洗礼が必ずしも洗礼ではありません。どんな些細なことでも、全く新しい考えを生み出すきっかけになることがあります。例えば、聖書に書かれている重要な語のつづりを検証すると、サクラメントにある最も根本となっている部分を理解することができるのです。

日本語の聖書を開くと、「洗礼」という言葉に「バプテスマ」というルビがついていますが、このバプテスマという語は「水中に飛び込むこと」という意味のギリシア語から来ています。一応「バプテスマ」は「バプトー」という動詞の派生語です。ところがこのバプトーという語を新約聖書の中から見つけるのは、非常に困難です。その代わりに別の語が多く使われているのです。

イエス様が活動しておられた時代、ユダヤ教の多く――例えばエッセネ派やクムラン教団――で、清めの儀式として大きな水槽に全身をつける沐浴(もくよく)が一般的に行われました。程なくして、この沐浴を行うために、ミクヴァという浴場が使われ、ある程度のシナゴーグ*では、ユダヤ教主流派でも、このミクヴァは一般的な設備となりました。

こうした沐浴とキリスト教の洗礼との違いは、「浸礼」というもう一つの語にはっきり現れています。

「潜水」「溺死」

キリスト教徒ではないギリシア人は、ユダヤ人のこの行為をロノまたはバプトーと表現していました。それぞれ「入浴」「潜水」という意味です。しかし、決してバプティゾーとは表現しませんでした。バプティゾーという語には「潜水」「浸礼」の意味がありますが、同時に「沈没」「溺死」という意味もありました。しかしこの生死に関わる言葉が、初期のキリスト教で用いられるようになったのです。

新約聖書に、バプトーという語は4回しか使われていない一方で、生死に関わる意味を含むバプティゾーという語は、バプティゼインなど派生語も含めると、80回に上ります。バプティゼインという語は、洗礼を意味する名詞語もこれとよく似ていて、「洗うこと」を意味するバプティスモスという語を、新約聖書では5回しか用いられていませんが、キリスト教に対応した訳語――すなわちバプテスマという語――は22回も使われています。

キリスト教の初代信徒たちにとって、死と洗礼との近接性が、なぜこれほど重要だったのでしょうか。

洗礼者からキリストへ

その答えを導く最初のヒントを、洗礼という語が最初に登場するところから見つけることができます。つまり、らくだの毛衣を着て、ばったを食べ物としていた、荒野出身の終末論的伝道者に関する記述の部分です。バプテスマのヨハネは、伝道活動において、劇的に変わることを要求しました。彼による浸礼は――他の人々のそれと異なり――繰り返し行われることがない代わりに独特です。というのは、彼による浸礼には、古い命が終わり新しい命が始まるという特徴があったからです。

しかし洗礼に関するキリスト教の考え方は、もっとはるかに深いものがあります。それを端的に表しているのは、犠牲の死が間近であったイエス様のご発言です。「しかし、私には受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう」(ルカ12:50)。別な箇所では次のように言っておられます。「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」(マコ10:38)。

こんにちにおいても、すべての受洗者は、この死を伴う洗礼を受けることになります。

死から生へ

結局、私たちは洗礼を受けて、「イエス・キリストのようになる」、あるいは「イエス・キリストの御名によって」洗礼を受けます。これは使徒言行録に書いてあるとおりです。パウロはローマの信徒への手紙6章でこう述べています。「キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。」受洗者は、イエス様の死と密接につながっているように、イエス様の復活とも密接につながっているのです。

死と洗礼の関係は、新約聖書が贖いについて他の多くの側面を展開している主軸であります。これについては、今後議論しますが、その前に、「イエス様御自身は誰かに洗礼をお授けになったのか。イエス様はどのようにして洗礼を制定されたのか。洗礼に際してイエス様はどのようなことを規定されたか」という極めて現実的な問題を議論します。

(5月13日nac.todayより)

*浸礼…全身を水中につけること。一部の教派が行っている洗礼の形態。

*シナゴーグ…ユダヤ教で、礼拝を行うために集合する会堂。

Automatic translation